美しいひと

10月26日に放映された眞子様ご結婚会見の話題で、どのテレビ番組も持ち切りだ。

新聞も然りだ。

街の人がインタビューに応える中で、また新聞での有識者の意見として、「国民が納得いく説明ではない」や「一方的である」という人が居る。

そう言っている人々は、何か勘違いしているのではないか。

そもそも、皇族だからといって結婚に国民の許可など必要ない。

結婚は両性の合意によって誰もが認められる権利だ。

ご質問への答えと称して、読み上げられた文書の中にもあったように、

事実ではないこと、憶測が独り歩きしてあたかもそれが真実であるかのように世間に

広められる。

その世間とは他人の行動の一々を監視し、評価し、上げ足を取っては追及しようとする人々なのだ。

国民も様々なのであって、自分が国民の代表のように発言すべきでない。

国民一人一人は何様でもなく、誰であれ例え親であってさえ、成人した子供の結婚に口を挟むべきではない。

子供が結婚相手を選ぶ目を養えるように、育てることが親の務めなのであって、結婚するような大人になった子供に対して、その判断を疑っている段階で親として出来が悪いのである。

ヨチヨチの頃、秋篠宮様の手を握りしめていた幼い頃、制服姿の入学の頃、そんな眞子様が、実に立派な芯のあるしかも綺麗な女性となって、自分の意志で皇族から離れてゆく。

その逞しさに清々しさに美しさに目を奪われた結婚会見であった。

心底、祝福し、応援したい。

 

 

小樽

夏休みが3日間残っていたので、シルバーウィークに合わせて纏まった休みを取った。

久しぶりにブラっと小樽まで出かけた。

独りで小樽に来るのは何年ぶりだろう。

回転ずしを鱈腹食べ、ガラス細工の店を覗いてみることにした。

トンボ玉や鈴のストラップが欲しかったついでに、色々店を見て回る。

昔と代わり映えのしない品物ばかりが店頭に並ぶ。

小樽に何の関係もない小物を売る店がどさくさに紛れて軒を並べているが、

このご時世、その内の何件かは閉店しているようだった。

平日とは言え閑散とした商店街。

小樽は時代に取り残され、すっかり錆びれた街になっていた。

観光地小樽の名前に胡坐をかいて、安穏として生き残る努力もせず、埋没していく街。

街も人も、時代の流れとともに否応なく淘汰されていくその大きな転換期に今、

私も生きているのだ。

これからどうやって私は生きていくのだろう。

自分という素材を活かすために、私は何をすべきなのだろう。

耳を澄ませて自分の声を聴いてみても、なんの応えも帰ってはこない。

 

「ヤメテください」とおっしゃってください。

暑い夏だった。

在宅で仕事をする時間が長くて、エアコンのない自宅は身の置き場もないほどだった。

ようやく秋の気配が訪れて、落ち着きを取り戻したので、ブログを書くこととしよう。

先日会社で、Webのハラスメント講座を受講した。

昭和から平成、令和へと移り変わり、社会の風潮も相当変化した。

昔の常識が今の非常識になっている。

会社組織では暗黙の掟が存在しており、昔の部下達は上司達から否応なく時代遅れのモラルを押し付けられてきた。令和になった今でもその傾向はある。

しかしそれが今、急速に転換期を迎えている。

良かれと思って云った言葉がおせっかい、パワハラと受け取られる。

それでも何となくそんなものだでうやむやに通ってきた時代は長く続いてきたけれど、今は逆に訴えられる時代となった。

受講して、自分の行為、言動はハラスメントに該当するらしいと思った。

気の弱い若い奴には、一言いいたくなるのだ。しっかりしろ、と。

こちらとしては、コミュニケーションの一環の意味合いもある。

年上から年下へのハラスメントは、自覚がないのがほとんどだという。

私の場合もまさにそれにあてはまる。

少々きついことを言われたからと、いちいち傷ついていたのでは、生きてゆけまい。

何も言えなくなる社会は、ますます人間関係が希薄になるだろう。

上っ面だけの付き合いで、人生の深淵は覗けないのだ。

様々な面倒や不快な出来事があるからこそ、芸術や文学が尊いのだ。

人生とは、すべてが幻想であると気づくためのゲームなのではあるまいか。

そのうち、だれに何を言われようが、もろともしなくなる自分になれる、そう思うと楽しみではないか。

もし、私にハラスメントをされたと思う方がおられるなら、「ヤメテください」とおっしゃっていただければよいのであります。

さすれば、二度と近づきませんから。

カラスよ

 マンションから出て買い物に行く途中、隣家の門の上に止まっているカラスがいた。

人の目線の高さに止まっていて、私が見つめても動じる風もない。

黒々とした目が可愛らしいので、じっと見入ってしまう。

困惑するかのようなカラス。

在宅勤務中の昼休みの間の買い物なので、のんびりしてもいられないから、

そのままスーパーに向かって歩きだすと、後ろから頭に衝突するものがある。

カラスだ。

 

それから執拗に攻撃を仕掛けてくるカラス。

実は以前もカラスに目をつけられた経験のある私は、カラスは真正面からは襲ってこないことを知っていた。

後ろを振り返りながらスーパーまでの道のりを走って逃げる羽目になるとは・・・。

カラスを見つめてしまったことに後悔するも、もう遅い。

頭上高くから襲い掛かろうとするカラスに対し、パッと振り向く私。

急に真正面を向かれたカラスは、攻撃し損ねて小学校のフェンスに急停止する。

そこで私とカラスはじっと互いの目を、又しても見つめあうことになる。

きっと子育て中であったのだな。

君はカラスで、私は人間。

人が見ているので、カラスに語りかけることもできず、目で訴える。

なんとモドカシイことか。

「カラスよ、何の下心もないよ。君の目があまりに可愛くて見とれていただけなのだよ」

言葉が通じたなら、誤解は解けたはずなのに。

帰りはスーパーで買った100円傘で後頭部を守りながら、何とか無事に家まで辿り着いたのだった。

お黙り!道を説く君

母との関係がうまくいかなくなってから、かれこれもう30年以上にもなろうか。

幼いころは確かに私は、素直に母を愛していたと言える。

筋道立ててなぜなのかはっきりとは言えないが、いつの間にか母を憎むようになった。

そんな自分の感情を受け入れることができずに何年もの長きに渡り、ただ自分の暗い感情に押しつぶされそうになりながら、生きていた。

声が出なくなった。

そのうち色々な本を読み漁り、その正体を知ることとなった。

母は私を支配しようとしている。

それと理解した時から、私は自分を徐々に解放し、暗い感情を相棒に生きてきた自分を許せるようになった。

母が望む人生ではなく、私は私の人生を生きていいのだと、思うようになった。

母とは決して、世間でいうところの仲のいい親子にはなれないだろう。

距離をとることで互いに傷つけあうことを避ける術を私たちは身に着けた。

今が私たちにとってのベストの関係なのだと思っている。

先日、そんな私たち親子の関係を修復すべきだと、忠告するものがいた。

従兄弟である。

従兄弟は私たち親子の歴史を知らない。

そんな世界があることなど豪も考えられない者が、自分の世界の正義を振りかざして道を説こうとするその浅はかさが、耐えがたかったので、ピシャリと一刀両断にしてくれた。

これから先は、もう自分に我慢を強いるようなことは一切しないと決めたのだ。

 

昨日の友は今日の敵

6年ほど前になるが、薄給で暮らしていた時、旧友から突然誘いがあり、

今の会社に転職した。

比較にならないほどの好条件であった。

しかも当時勤めていた会社というのは、正に沈みゆく泥船であった。

なので、旧友から電話をもらった時、私は一も二もなくこの誘いに飛びついた。

風前の灯のような事態は、旧友のお陰で一転した。

 

こんな奇跡ってあるんだなと思い、心底旧友に感謝した。

もちろんそれは今でもそうだ。

しかしだ。

いまでは会社で先輩となったその旧友は、私を自分の補助としか考えていないのか、

業務の根幹部分は自分ひとりで行い、私に渡そうとはしないのだった。

私といえば、新入社員がやるような作業ばかりで時間を持て余している。

社内失業状態なのだった。

自分で言うのもなんだが、私は業務の効率化を図ることが得意である。

彼女の仕事ぶりは、正直見ていられない。

もっと合理的にできるのに、とつい口を出したくなる。

しかし、プライドが高い彼女は聞く耳を持たず、あくまで自分のやり方に固執する。

ところがこの度、業務のヒヤリングのために本部から人が来て、この驚くべき実態を知ることとなった。

本部に帰ってから、業務分担を見直す方針である旨を、私にメールで知らせてくれたのである。

どうやら6年目にして、状況が好転しそうな気配である。

窮地を救ってくれた旧友に対し、感謝しつつも釈然としない感情が私の中に

ずっと渦巻いていたのは事実だ。

昨日の友は今日の敵、という言葉がある。

私を補佐としてしか見なかった彼女は、なんの悪気もなくそうしていたのだろうか、

それとも自分の地位を脅かすかもしれない存在を封じ込めたかったのか、

判然としない。

しかし、恩があるからと言って、私もこのまま小さな世界にずっと押し込められてはいられないではないか。

敵となるか友となるかは、今このステージにいる私が決めることだ。

 

ベランダの物干し

今年は桜の開花がいつもより10日ほど早いらしく、そろそろ咲きそうだという。

冬の間、部屋の中に避難させていた鉢植えを、昨日ベランダに出した。

風は強いが、陽の光を浴びて、花麒麟もアイビーもなんだか嬉しそうだ。

月中からは在宅勤務になる。

特にやることもない。

給料は普通に入ってくる。

世間では自殺者も出ているというのに、同じ日本人でありながら、

まるで次元の違う世界に生きているようだ。

ベランダに備え付けてある洗濯物干しは、設置の高さが低いため

長さのある洗濯物が、床面に付きそうになる。

ここは2階で、設計上3階、4階のベランダよりも腰壁が低いのだ。

1階などはこれより低い。

物干しが付いているだけで、あれでは使い物になるまいと思う。

私の不満といえば、ベランダのこの物干しくらいのものだ。

できればもっと広い居住スペースが欲しいとも思うし、完璧なベランダも欲しい。

とは言え、この暮らしで満足している。

人生に目標があって、そこに向かって夢中になれる、そんな日々に

憧れがないわけでもない。

でも毎日、ちゃんと暮らしていける、それだけで充分じゃないか、

そう思っている。